こんにちは。『芦屋に住んでみ~ひん?』管理人のアシヤタガラスです。
このページでは、サイトの基本的な考え方と運用方針、
運営者こと私アシヤタガラスのご紹介をしたいと思います。
基本情報
芦屋No.1の情報ブログを目指して
グルメやイベントなど、有益情報を発信しています。
運営目的
芦屋を隅々まで分解し、
有益情報や魅力を広く紹介し、
芦屋がさらなる魅力ある街へと
成長することに貢献する。
目標
芦屋No.1ブログとして、
「芦屋といえばアシヤタガラス」
と言ってもらえるようなサイトを目指します。
ロゴは芦屋市の形に八咫烏を合わせたものです。
芦屋を導いていくサイトとして成長していきます。
運営者の経歴
兵庫県の西宮市や神戸市で幼少期、学生時代を過ごす。
大阪府で会社員をやっていましたが、転職を機に兵庫県芦屋市へ移住。
芦屋市に転居し、6年。
芦屋市民としては新参者ではありますが、
住んでみてわかった芦屋の良さや穴場、地元の政治について等、分かりやすく発信していきたいと思っています。
芦屋に住んでみたいと思っている人にも、有益な転居情報を提供します。
趣味はスポーツ観戦と歴史研究。
特にラグビー・ボクシングの観戦が大好きで、
サブサイトも立ち上げています。
プレー経験のあるサッカー・野球、その他のスポーツについても
何かしらの形にしたいと考えています。
最後に。サイトを立ち上げた経緯
そもそもの経緯
私の身の上話も含めて。長くなりますので、お茶休憩の合間にでも・・・
漫然と生きてきた青年期
大きな夢や目標もなく、
なんとなく学生生活を送り、なんとなく受験をし、
なんとなく大学に行き、なんとなく就職をして
なんとなくサラリーマンとして働き始めた私。
結婚して子供を設け人並みの幸せを築き、
毎日にそれなりの充実感を得つつ、
自分の人生こんなもんかな、という
不完全燃焼感からくるもやもやを抱えながら、
家計を支えるためサラリーマンとして働いていました。
が、”ある出来事”をきっかけに
自分が人としての幸福から知らず知らずのうちに
遠ざかっているのではないかと思い始めることになりました。
2017~18年頃のことだったと思います。
自分の人生を見直すきっかけ
その出来事とは、
祖母に自分が生まれる前の話を聞きに行ったこと、でした。
2021年に亡くなった母方の祖母は、
私の生まれたときから実家に同居し、
大学に進学し家を出るまでの19年間、
多忙な両親の助っ人として4人兄弟の我々を
私達兄弟を育ててくれた、
ただの祖母という存在を超えた家族であり、
人生の大恩人でした。
幼い頃は特に目をかけて自分と遊んでくれた祖母でしたが、
当の私はというと兄弟や友人と遊ぶことに夢中で、
運動が好きだったこともあり、小学生になる頃には高齢の祖母と
遊ぶこともなくなって、自然と接点が減っていきました。
私がいかにかわいい存在であったかを日頃から誇らしげに語ってくれたり、
孫の将来を案じて小言を言ってくれる祖母に対して、
嬉しさもあり恥ずかしさ、煙たさもあり、照れのような感情から
長ずるにつれ次第に距離を置くようになっていきました。
いわゆる反抗期のようなものだったと思うのですが・・・
そんな祖母について私が知っていたことは、
お寺の出身だったこと、小学校の教師をしていたこと、
私の実家に同居する頃には独り身だったこと、
幼いころに父を亡くしていること。
ギャンブルと借金が大嫌いだったこと。
教職員などの資格を取れとうるさかったこと。
その程度のことしか知らなかったのです。
祖母はどんな人生を歩んできたんだろう?
とふと疑問に思うことはあっても、
過去を知らなかったところで一緒に生活できないわけでもないし、
わざわざ母に尋ねたり、直接祖母に聞いて過去を改めて掘り返す、
といったことを自ら能動的にやる気にもなれず、
だから同居しているときは祖母は謎の人物だったわけです。
私が家を出た頃、70代後半だった祖母は矍鑠としており、
年齢を感じさせず、永遠の命なのではないかと思われるほど元気でしたが、
私が結婚して子供が産まれ、実家によく顔を出すようになった頃には、
一見元気に見えても、ベッドに横になる時間が増え、
自室から出ることに億劫さを感じるほど老衰していました。
そんな祖母の姿を見ていると、祖母が元気なうちに昔の話を
聞いておかないといけないな、という思いが強くなっていきました。
というのも、私は歴史が好きで、専攻は理系だったのですが、
歴史に記された先人たちの生き様を知るのがこの上なく楽しく、
本業の勉強や仕事に支障が出るような有り様でした。
そんな歴史好きの自分が、
自分を育ててくれた大恩人である祖母の過去を知らない。
そんなことすら知らずに、歴史を語る資格などあるのだろうか。
私が、家の歴史を語り継いでいかなければならない。
そういう使命感のようなものが日々強くなっていったのです。
家族で実家に帰った際にはなかなか腰を落ち着けて話す機会もなく、
また他人がいれば話したいことも口に出せない、
私だけにしか言いたくないようなこともあるんじゃないだろうか、
ということも考え、平日に休みをとって単身実家に帰って
1対1でみっちり話す場を設けよう、そのように思いつくに至ったわけです。
祖母の人生
祖母はとても波乱万丈な人でした。
大正生まれの祖母の実家は、
大阪の枚岡(ひらおか)にある、とある由緒あるお寺。
明治天皇から勲章をもらったような
お国の発展に貢献したお寺だったそうで、
両親と兄の4人兄弟で仲良く過ごしていたそうです。
祖母が2歳のとき、お寺がその勲章を紛失した事件があり、
祖母の父がそれをきっかけに周囲の制止を聞かず自◯したのです。
それからというもの、残された母と幼い兄妹の3人家族は
檀家さんに助けてもらいながらなんとか食いつないでいく
という状態だったそうです。
祖母は孫が自分のことを聞いてくれたのが嬉しかったのか、
時には親戚の家に預けられて転々として育ったり、
戦争では田舎に疎開したりと、大人になるまでの生活を
嬉々として語ってくれましたが、なかなか壮絶で、
初めて聞いたときは言葉もありませんでした。
祖母の母はあまり体が強くなかったらしく、
若くして亡くなるという悲しい出来事があり、
その前後、実家の寺を結婚した兄が継ぐなかで、
祖母は実家を出て一人で生活していくことに。
祖母は小学校の教師に就任して生計を立てていきました。
教職員の免許は祖母の人生を大いに助けたのですが、
孫たちにも教職員の資格を取るよう事あるごとに言っていたのは、
この経験から来るものだったようです。
祖父のこと
その後、祖母は祖父と結婚。
私の母と叔母の2女をもうけました。
その頃は妻は専業主婦となり家に入るのが常識と言われた時代。
家計の苦しさから幼い子供をおいて働きに出ざるをえなかった、
そのことで周囲から後ろ指をさされたことなど、苦い経験をした
ことを語ってくれました。
さらに祖父がまた難儀な人だったらしく、
ギャンブル好きで祖母に隠れて借金を作り、
そういったことが続いた結果、娘たちの人生を棒に振る
わけにもいかないと考え、ほぼ財産もないような状態で
離婚するにいたったそうです。
ずいぶんと他人行儀な書き方だなと思われるかもしれませんが、
私は祖父と一度もあったことがないのです。
上記のこともや祖父の人となり、祖母が独居した経緯など
なんとなく聞いてはいけないのではと、子供ながらに遠慮して、
まったく聞いたことがなかったのです。
若くして亡くなったのかな?など勝手に想像していたんですね。
祖母がギャンブル嫌いだというところに繋がっていくのが、
少しおもしろいな、と思ったのを憶えています。
祖父は10年ほど前に亡くなりましたが、
母と祖母は祖父の葬式に行くことを拒否していました。
よっぽどのことがあったのだろうな、と思います。
母の結婚と同居の経緯
祖父と離婚した後、祖母は奈良の平群(へぐり)で
娘二人と生活していました。
その後、見合い話があり、私の母と叔母の二人はそれぞれ
神戸と大阪に嫁ぎ、再び祖母は独居生活に戻りました。
神戸に嫁いだ母は、若い頃は体が弱く、
2度の流産を経て、私の姉と兄を産みましたが、
父が独立する際に母も手伝いに出ざるを得ず、
多忙さから家事と育児が回らなくなったようです。
その頃に産まれることになったのが、私でした。
あまりの状況に、両親は相談のうえ私を里子に出そう、
という案も出たようです。
どこまで本気だったのかはわかりませんが・・・
それほど、どうしようもない状況だったのでしょう。
独居生活を始めて約10年、悠々自適に生活を楽しんでいた
祖母がその話を耳にし、神戸に嫁いで楽しんでいるだろうと
想像していた母が想定外の苦境に立たされていると知り、
動いたのです。
結果として、私が産まれるときに祖母は父母と同居して
母の家事と育児をサポートすることになりました。
私は里子に出される危機(?)を
祖母に救ってもらう形になったわけです。
母の考える幸せ
母は若い頃は体が弱かったため、祖母は先行きの不安から
幼い頃から母を手厚く、厳しく育てたそうです。
そんな母は祖母の思うレールに乗って育ち、
祖母が選んだお見合い相手である父と結婚。
結婚してからも父の意思に沿い、反発することをせず、
がむしゃらに仕事に家事に育児にと働き続けていました。
それが、祖母が示してくれた道。
子どもたちの、自らの幸せへと続く道だと信じて。
ところがあるとき、ふと気づいたのです。
子どもたちが決して幸せそうではないことに。
あくまで母の目から見て、ということなのですが、
母が考えるような幸せ、祖母や父母が導こうとした
幸せの形に子どもたちが到達していない、
それどころかまったく違う方向に
子どもたちの人生が向かってしまっているように感じた。
そしていままで必死子どもたちを育て、
家事に勤しんできたのに、現状は目指したものと違うものになっている。
自分の努力はいったいなんだったのか、
本当に意味があったのか、
果てには、自分の人生とはなんだったのか・・・
生きている意味がわからないというようなことを、
ある日祖母に打ち明けたそうです。
このとき、母のなかで自分の信じる何かが崩れ去り、
価値観の再構築が行われたのでしょう。
母が考える、幸せというものもこのときに
大きく形を変えたものと思われます。
一歩引いた昔ながらの良妻賢母というような印象で、
周囲からもそのように見られていた母は、
その後、なにか吹っ切れたように
自らの思うがままに振る舞うようになりました。
まるで、祖母の敷いたレールが間違いであったと主張するかのように。
祖母の話がもたらしたもの
こういった事実を初めて、当事者である祖母の口から聞けたことは
自分にとって衝撃はあったものの、とても大きい財産となりました。
自分が里子に出されるような状況にあったこと、
それを祖母の献身によって救われたこと。
それに至るまでの祖母の波乱万丈の人生、努力。
両親や祖母の必死の働きのおかげで自分の人生がある。
その深い愛を、いま一度認識することができた。
そしてなによりも、
幸せそうに生きているように見えた母が、
実はその虚像に自ら苦しみ、自らの人生を否定するまでに至っていた。
そして、それは誰かの悪意によるものではなく、
むしろ好意によって形作られた虚像であり、不幸だった。
この事実は、私自身の幸福観・価値観をも大きく揺るがすことになりました。
母が自身や周囲の人間の好意によって不幸に陥ったのであれば、
もしかすると自分もそのような状況に陥ってはいまいか?
自分の人生は順風満帆に進んでいると思っているかもしれないが、
その実は不幸へと邁進しているんじゃないか?と。
そのように自分自身の人生を振り返るようになったのです。
自分も不幸だった
漫然と働き、それが家族のためになると信じていた、
それが根幹から間違っていたのではないか、
という思いが芽生えたのですが、
それでもお金のために背に腹は変えられず、
サラリーマンを続けていたのですが、
その悶々とした思いは日々大きくなっていきました。
その思いが決定的になったのが、
2020年から世界中で大騒ぎになったあの出来事でした。
多くの人が家の中で仕事をすることを強いられ、
もちろん私も例外ではありませんでした。
家で仕事をする機会が増えると、
これまで見えていなかった家族の姿を目の当たりにします。
以前は当たり前だと思っていた常識や、
これが自分にとっての幸福と信じていたものは、
”ある出来事”をきっかけに大きく変化していたのです。
つまり、価値観がガラッと変わってしまっていました。
その変わった価値観で家族を見たとき、
悶々とくすぶっていた思いが確信に変わり、
自分が目指していた幸福に近づくどころか、
日々遠ざかっていることに気づいたのです。
自分も、不幸へと向かっていた。
その気づきは、自分自身に大きな衝撃を与えました。
今の自分に繋がるもの、積み上げてきたものは間違っていないんだと
そう信じ込んできたものが土台から崩れ去り・・・
これまでの生き方がすべて間違っていたのだ、という結論に至ったのです。
同時に自分の人生の意味や目標、生きている意味を見失い、
あらゆることに身が入らなくなりました。
それからの数年は、本当に苦しい時間でした。
お金のために働かなければならない、
しかしその行為そのものが不幸へと近づいている。
そのジレンマが自分の心身を疲弊させていきました。
最後のきっかけ (作成中)
芦屋市の魅力・実態をお伝えしたい
日本を代表する高級住宅街である芦屋市。
その名は知らない人はいないと言えるほど全国に知られています。
一流のグルメが唸る高級店から庶民的な老舗まで
関西でも有数の密度で多くの名店が並ぶ街。
駅前はビル群、駅から離れると新旧織り交ぜた住宅街が広がり、
高級住宅街から比較的安価な下町まで様々な顔を見せる街。
市全体が風光明媚であり、さらに素晴らしい人々が
精力的に働き住む、日本が誇るべきこの街。
芦屋市は小さな町で、隣の西宮市や神戸市東灘区と比べても小さな面積であるにもかかわらず、市内を分かりやすく案内したサイトが無いなと感じていました。
市内には数多くのお店があり、ふと「たまには外食しようかな?」とか「せっかく芦屋駅に遊びに来たからどこかでランチでもしよう」と思ってもお店が多すぎて、どこに入ればいいのか迷ったあげく、結局チェーン店に入る、なんてことになりかねません。
市民や市外から遊びに来る人達の助けになるような、芦屋のガイドになるような市内の情報を網羅して提供したいと思い、このサイトを立ち上げました。